岡田利規インタビュー by 佐々木敦
『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』の開催を前に、海外のプレス向けに行われた、佐々木敦氏による岡田利規ロングインタビューを特別に公開いたします。
是非ご一読ください。
【佐々木敦 プロフィール】
1964年生まれ。批評家。HEADZ主宰。雑誌エクス・ポ/ヒアホン編集発行人。早稲田大学/武蔵野美術大学/東京藝術大学非常勤講師。『ニッポンの思想』『批評とは何か?』『文学拡張マニュアル』『テクノイズ・マテリアリズム』など著書多数。
(以下、「続きを読む」よりインタビューをお読み頂けます)
創作の経緯
佐々木 まず『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』が作られた経緯をお伺いしたいのですが、元々2004年に発表した『クーラー』という作品があって、前後のエピソードが付け足され、3つのエピソードでひとつの作品になるということですが。
岡田 昨年、ベルリンのヘッベル劇場が企画した日本特集のフェスティバルがあり、チェルフィッチュも招かれたんです。そのときに劇場から提案されたのが『クーラー』だったのですが、『クーラー』だけだと尺が短いので、じゃあ『クーラー』を拡大したものを作ります、という話になった。だから、企画あっての作品ですね。
佐々木 『クーラー』は、演劇の分野で活動していたチェルフィッチュが、ダンスの分野からも注目されるきっかけになった作品です。内容は「クーラーが寒いんですけど」という話で、いわゆる物語(の展開)があるわけじゃない。あるシチュエーションを用意することによって、その場で台詞とからだがどうなる(反応/呼応する、もしくはしない)か、という作品だった。それを、物語のある作品に拡張していくこと自体が、すごく稀だと思うんですよね。何か理由があったんですか?
岡田 『クーラー』という作品自体には、特に物語の展開はないのですが、例えば、置かれている境遇をある対比的なものを前後に並べることで、その並べ方、構成によって物語の一部にすることは可能だなと思った。『クーラー』というピースはそのまま変えずに。3つのピースからできている作品ですけど、ただ単に話の前後(展開)を繋ぐという機能の仕方ではない、別の、物語の一部として機能することも可能だろうと思っていた。その発想であと2つ付け加えれば、何か物語みたいなものにはなるだろう、と。それと同時に、それぞれのピースで用いる形式も微妙にバリエーションを付けていく。形式的には、音楽とからだの関係性というような見方もできる。そして、その2つを上手く折り合わせを付けて作れたら自分の創作に幅が出る、そういう幅を持たせたいという気持ちを持ちながら作っていったと思います。
音楽の構造に合わせる
佐々木 作品中の音楽について言うと、3つのパートとも、使われているそれぞれの曲は最初から最後までまるごと流れている。『ホットペッパー』がジョン・ケージで、『クーラー』がステレオラブとトータス、『お別れの挨拶』がジョン・コルトレーン。選曲も岡田さんらしいと思いますが、一曲まるごとかけることは最初から決めていたんですか?
岡田 僕はかけ切りが好きなんですよ。というのも、音楽を途中で止めてしまうのは、なんか良くないことの気がするんですね。音楽の使い方として失礼な気がする。曲というのはひとつの構造だから、その構造はそのまま出した方が良いだろうと思う。それと、その曲の構造を拝借すると非常に楽なんです。例えば、曲には時間があるので、それに合わせてテキストを作る。まず適当な長さで台詞を書いてみて、実際にやってみたらちょっと足りないから足そう、ちょっと余ったからここを削ろうという具合に。もちろんパフォーマーにもよりますけど、この作品では、音楽の終わりと台詞の終わりは絶対に一致させる。それは俳優にとっては大変なんですけど。動きながら音楽も聴いて、喋らなきゃいけない、尺も合わせなきゃいけないので。音楽を聴かせるために、普段演劇では使われない、モニタースピーカーを使っていますからね。とにかく楽曲の構造に身を任せて、頼って。自分で構造や時間を決めるんじゃなくて、この音楽だからこうなる、音楽ありきで作ってみるというのは、今までの自分の作り方とはかなり違う。一曲をかけ切りか、かけ切りじゃないかの違いは、その音楽が持っている構造に従うか、自分たちが独自の構造を持っていて、その構造の為にその音楽を使うか、というのはものすごく大きな違いなんですよね。
佐々木 そうですね。通常は後者ですよね。
岡田 そうかもしれない。だけど、その音楽の構造に従うことで出てくる何かが確実にあって。自分発信で作ることでは出てこないものもある。
佐々木 それがこの作品の最大の特徴ですよね。最初が現代音楽というか実験音楽で、2つ目がポストロックで、3つ目がフリー・ジャズ(笑)。それぞれ楽曲の雰囲気と、それぞれのピースの雰囲気も、やっぱり合っていると思う。音楽の構造で決定しているから、自然にそうなっているのかもしれないですけど、『ホットペッパー』はケージの『プリペアド・ピアノ』の散発的なというか分裂的な音の散らばりに、それぞれの役者の動きもリンクしているような感じがあった。一方で『クーラー』は、トータスとステレオラブの共通点はやはり反復だと思うんですよ。『クーラー』は一番ミニマルな動きですよね。同じことが繰り返されたりしているし。それで、『お別れの挨拶』は、コルトレーンでずっと絶頂で、長台詞の高揚感とコルトレーンの異様な絶頂感が作品のクライマックスとしてすごく合っている。そのおかげでちゃんと終われている。
岡田 終われてますよね。でも、なんで終われてるかというと、それは音楽が終わったからなんですよ。本当にそれしかない。テキストレベルでは、スピーチが終わってお疲れ様でしたという具合に終わっているだけですから。音楽がなかったらしょうもない感じですよね。
振り付け
佐々木 演出の話を伺っておきたいんだけど、さっきも言ったように『クーラー』はダンスとして評価をされた作品で、今回の3本とも、物語もあって演劇でもあるんだけど、ダンスとしても見られる作品になっていると思うんですね。役者の人たちのからだの動きは、この作品に関してはどういうふうに動きを作っていったのか興味があるんですけど。
岡田 たぶん発話される言葉との関係で動きを付けるというのが、いわゆるダンスの振り付けとは違うと思う。ほとんどの振り付けは、やはり言葉を用いていると思うんですよ。ある動きにイメージを与えるために、言葉を与えている。僕の場合はその言葉との距離というか、その言葉を喋るために持つイメージ、そのイメージが生まれる地点を要求する。曲に合わせてもいないし、台詞に厳密に合わせてもいない。その時に持っているイメージに従って、イメージの束ねられた動きであればOK。イメージを持つことによって、俳優は、自分が自分のからだをどう動かすのかという自分のからだの挙動の責任者、オペレーターとしての責任者の座から降りることができるんですよ。それはすごく自由で。
佐々木 自分でやらなくていい、ということですよね。やっているのは自分だけど。
岡田 そう。自分とは別の何かにそういうふうにやらせる、やってもらうという感覚。
ロストジェネレーション
佐々木 チェルフィッチュの作品を通して観ると、『クーラー』、『三月の五日間』、『エンジョイ』、『フリータイム』と続くんだけど、日本の若い労働者を描いている作品がいくつかある。『お別れの挨拶』を最後まで観終わったときには、テーマ的にすごく繋がっていると思ったんですね。
岡田 自分がそこに引っかかるのかは、自分ではよくわからないんですけど、何かそこが自分の拠り所ではあるんですよね。例えば『エンジョイ』を作った頃は、ついその頃までフリーターだったんですよ、僕も。この間までフリーターだったのに、新国立劇場に委嘱されちゃったとか思って。だから、フリーターだった人間だから書けるものを書こう、みたいな意識はかなり強かったんですよ。だけど、その後もなんだかんだ、そういう問題ばかり取り上げている気はしますよね。それがなぜなのか自分ではよく分からない。ただ、『エンジョイ』の時はそうだった。そして、その問題はまだ自分の中で持続されている、ということなのかもしれないですね。
佐々木 そういう非正規雇用など今日の(日本社会の)労働問題が、岡田さんには実感として、基盤として入っているなと作品を観ていて思います。
岡田 やっぱり、いつも思うのは、子供のときは日本がこんなことになるなんて全然思ってなかったんですよ。だって社会科の教科書読んだって、全部グラフは右上がりだった。世界二位とか三位とか、そんなのばっかりでしょ。高度成長期には永遠に右上がりが続くとみんな思っていた。で、それがそうじゃなくなったときに、すごく認識の変更を迫られたというか、小学生のときに読んでいたあの教科書は何だったんだろうという思いが強いんですね。僕の世代特有なのかな? 世代の幅はわりと広いと思うんですけど。社会に出る前にそうなったから、社会に出てからそうなった人とも、また違うと思うんですよね。でも、今からすると、やっぱりこの感覚は、途中で梯子外されちゃったというような日本の僕らの世代の感覚は、ユニヴァーサルなものじゃないと思う。すごくローカルなものだと思うんですよね。
佐々木 いわゆるロストジェネレーションと言われている問題。
岡田 うん。その戸惑いを、常に僕は表明しているのかもしれない。とにかく僕は戸惑っていてどうすりゃいいんだ、話が違うじゃないかと(笑)。でも、話が違うじゃないかって言っても、責任者がどこかにいるわけではなく。
佐々木 世代の問題ってやはりあって、一種の不遇感が出てくる。そのロストジェネレーションと言われている人たちにとっては、雇用の問題が一番の中心だけれども、ある種の不遇感をすごく強く持っているというのは、よく指摘されることですよね。『三月の五日間』からそうだったと思うんですけども、岡田さんの場合は、ある種の屈託を抱えていても、作品への昇華の仕方が、良い意味でストレートじゃない。フィルタリングされた形で出されている。
岡田 それはやはり、何としても自分の置かれている状況を肯定したいという思いはある。あるいは、それ自体は肯定できるものじゃなくても、その条件から、何か面白いものを作り出すことで、肯定の方向に向いたいという気持ちはあると思います。ネガティヴなことをネガティヴな素材を使っても、それ自身に力があれば、それだけでポジティヴにできるということが可能じゃないですか、芸術というのは。それは、すごいことだと思うんですよ。芸術というものを使ってポジティヴに転化する仕方ではない満喫の仕方は、僕には無理ですよ。現実そのものを変えていこうっていうようなアクティヴなことも僕はあまりできない。それをやれる才覚も度胸もない。でもそれを、何かこう面白い作品を作ることで、何か肯定化にちょっとでも寄与するようなものになるくらいのことは出来るし、それはやりたいという感覚ですよね。
ドメスティックな話題を海外でやること
佐々木 この作品は、オフィスの中でのクーラーの問題とか、「ホットペッパー」というフリーペーパーの話とか、極めて日本特有と言える話題が出てるわけですけど、海外の人からしたら「ホットペッパー」って何だよと思うじゃないですか。海外の観客に対して、共有されていないドメスティックなコンテクストを使うことに関して思うことはある?
岡田 「ホットペッパー」って普通におかしいじゃないですか。居酒屋の割引券が付いてる無料の雑誌のタイトルがホットペッパーって全然関係ないじゃないですか。そんなの日本人だって知らないし、たぶん10年後の日本人はホットペッパーのことを忘れていますよ。でも、三人が、友達がクビ切られるその送別会の店を探す議論をしているということのしょうもなさはたぶん残ると思うんですよ。「え、それだけ?」って。わざとドメスティックさを打ち出すのも、なんかすごく意地悪だし。何て言うのかな、例えば、別に異性に気に入られようと思って振る舞う必要はないけど、でも人と人が会ったら会釈ぐらいしたっていいでしょ、というのはありますよね。その辺で自分の中で苦しんでいた時期があったんだけど、この作品でちょっとそこは抜けたかなっていう気分になれたんですよね。片肘張るのでもなく、意地悪するのでもなく、媚へつらうのでもなく。それはすごく嬉しかった。
佐々木 そういう意味では、チェルフィッチュのターニングポイントになった作品と言えるかもね。この作品以後もすごく楽しみな期待感があります。

